法窓小話

乱筆乱文にて失礼致します

死を受け入れる論理と感情

先日、「NHK クローズアップ現代 ある少女の選択」を見た。

この話は、幼いころから病院で延命治療を続けていたものの、18歳のときにこれ以上延命治療を続けることを拒み、自宅で家族と残りの時間を過ごすことを選択した少女と、少女の選択を尊重し一緒に暮らすも、死を受け入れようとする彼女に少しでも生きてほしいと葛藤する家族やそれに関わる医師の姿を記録したである。

放映中は、少女の父親の視点から番組を見ていた。少しでも長く生きてほしいという父親の言葉には胸をしめつけられた。私が同じ立場なら、同じことを言うだろうか。

延命治療を拒むことも個人の選択である以上、周囲はそれを尊重すべきだとは思いつつ、人は自ら命を絶つという決断をしてもよいのだろうかという考えも払拭できず、終始複雑な気持ちで画面を見つめていた。

もし、これが延命治療を拒んだケースでなく、経済的事情や人間関係のもつれ等の理由で自殺を選ぼうとしている人の場合だったら、私はその人を自殺させるだろうか。相手が自殺を図ろうとする人であるならば、私は是が非でも自殺をやめるよう説得をするだろう(上記の少女の場合とは異なり、これは確信に近いと思う)。ただ、延命治療を拒む場合と自殺をしようとする場合で、何が異なるのか私にはわからない。延命治療を拒むことは善いことで、自殺することは悪いことだという、単純な善悪の問題で片付けることはできないだろう。とすると、両者で結論を別にする要素は何なのだろうか。

番組を観終わった後も、考えは空中分解を繰り返し、今もこのことに関しては、もやもやしたままだ。

こういうのは時間を置いたのがいいのだろうか。少し胸にしまって考えが醸造できるまで待とうか。